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当サイト「Co-study.français(コスタディ・フランセ)」へお越しいただき、ありがとうございます。
フランス語サポーターのShoko(@shoko_france)です。
この記事では、私Shokoの詳しいプロフィールと当サイトについてご説明させていただきます。
少し長いですが、私の半生がぎゅっと詰まっているので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです!
基本情報
- 名前:Shoko
- 誕生日:1989年2月
- 血液型:AB型
- 出身:広島県広島市
- 職歴:旅行会社→在外公館派遣員→フリーランス
- 特技:サンバ、筝
- 趣味:語学、読書、舞台鑑賞(宝塚、歌舞伎など)、ハイキング
高校生の頃から、ずっと海外に住みたいと思い続け、アラサーで会社を辞めて、ヨーロッパへやってきました。
生い立ち
幼少期~小学生時代:シャイで大人しい文学少女
両親は共働きだったので、日中は近所に住む祖母がよく面倒を見てくれていました。
0歳のときに初めて買ってもらった、くまのプーさんのぬいぐるみが最初の親友。
片時も離さず、持ち歩いていました。
実は上京したとき、海外に行くときも連れていきました(笑)
一人っ子で大人しく、人見知りな性格だったので、ひとり遊びが得意な子供でした。
妄想の世界でお姫様ごっこをしたり、本を読んだり、折り紙を折ったり。
週末は、母と自転車の練習をかねて、近くの図書館や大きな本屋さんに行き、好きな本をどっさりゲットして、公園で太陽を浴びながら読むのが、至福のひとときでした。
でも、大人しい性格の割には、「周りの子がやらないことに敢えて飛び込みたい」という謎のチャレンジ精神もありました。
たとえば、なぜか町内会の子供相撲大会にガタイが良い男の子たちに混ざって出場してみたり。
(初戦で優勝候補のジャイアンみたいな男の子と当たって、あえなく敗退!)
誰も興味を示さない校内俳句コンクールにいきなり応募してみたり。
(応募者数5名しかおらず、見事優勝!)
「この子は見た目が大人しいから、あまり前には出なさそう。」という周囲の見込みや期待を敢えて裏切るのが好きなちょっと変わった子供でした。
この頃から、型にはまりたくない!人と同じことは嫌!というマインドが育っていた気がします。
中学時代:海外に興味を持ち始める
叔母が航空会社勤務ということもあり、海外の土産話をよく聞いていたので、漠然と海外への興味と憧れが募っていました。
中学から始まった英語の授業は、海外への道に繋がっているようで、とても楽しく、勉強が苦になりませんでした。
中学1年生のとき、叔母がロンドン駐在になったため、夏休みに母と遊びに行きました。
これが私にとっても、母にとっても人生初の海外旅行でした。
歴史の重みを感じさせるヨーロッパの美しい街並み。
ロンドン塔、ビッグベン、大英博物館、赤い2階建てバス。
テレビでしか見たことない世界は、目に入るもの何もかもが新鮮で、毎日が驚きと感動に溢れていました。
当時インスタントカメラで自分で撮影した写真を見返すと、観光名所でもなんでもないただの建物の写真や街の風景がたくさんあります。
中学校で習いたてのカタコトの英語がちゃんと通じたことも嬉しく、外国語でコミュニケーションする楽しさに目覚めたのもこの時。
帰国後、英語の勉強のモチベーションが爆上がりしたのは言うまでもありません。
高校時代:英語が楽しくて仕方ない
そして、「海外楽しい!英語もっと話せるようになりたい!」というモチベーションのまま、英語の授業に特化した国際コースがある公立高校へ進学。
このコースは1学年に1クラスしかないので、3年間ずっと同じクラスでしたが、クラスメートはみんな私と同じように、英語が好きで海外に興味があったので、話が合う子ばかりで、毎日が楽しくて仕方がなかったです。
ネイティブの友達が欲しい!と思い、ランゲージエクスチェンジのサイトに登録し、同年代のイギリス人やオーストラリア人などとペンパルになりました。インターネットすごい。
英語でコミュニケーションがとれるのが嬉しくて、わからない単語は辞書を引きながら、毎日彼らとメール交換やチャットに夢中になっていました。
非英語圏のペンパルもでき、共通語は英語でしたが、彼らの文化や言語を教えてもらうのも楽しみでした。
日本ではこうだけど、海外では違う。
自分の常識や当たり前をどんどんアップデートする作業がとても楽しかったです。
日本の片隅から、英語で世界の裏側にいる人たちと繋がることができる感動を味わいながら、もっともっと世界を知りたいと思うようになりました。
高校時代:フランスとの出会い
国際コースの修学旅行は研修も兼ねて、毎年オーストラリアに行っていました。
しかし、ちょうど私が高校2年生のとき、毎年開催されるEUの高校生会議に、戦後60周年を記念してヒロシマの高校生を招待しよう、という動きがあり、なんと私の高校に白羽の矢が立ったのです。
急遽、修学旅行がまさかのフランス行きとなりました。
会議では、ヒロシマや原爆についての展示や発表を行うことが決まっていたので、私たちはその準備に毎日追われることとなります。
会議への参加がきっかけで、フランスの地元の高校とも交流がスタートすることになり、フランスのご家庭にそれぞれホームステイする機会にも恵まれました。
ベルばらを愛読していたので、フランスの歴史に興味はあったものの、知っているフランス語は「ボンジュール」と「メルシー」のみ。
当時の私は、英語さえ話せれば、世界のどこでもコミュニケーションがとれるものと信じていました。
しかし、行き先はフランスですから、もちろん言語はフランス語です。
フランスに行ってはじめて、フランス人(外国人)全員がみんな英語が流暢なわけではないことを知りました。
高校生の私にとって、「外国人=英語」だったので、英語が通じない場所がある、ということがまず衝撃でした。
私のホストファミリーも例に漏れず、フランス語訛りの英語でなんとかコミュニケーションがとれるレベル。
私には英語で話しかけてくれましたが、家族同士や友人同士の会話はもちろんフランス語なので、私にはちんぷんかんぷんでした。
この経験を経て、英語ができても、本当の意味で世界を知ることはできないことを学びました。
また、フランスでは女性の権利や地位の向上、社会での男女平等が進んでいるのが印象的でした。
たとえば、ホームステイ先のお父さんが当たり前のように夕食の準備をしている場面。
自分の父親が台所に立っている姿を見たことがなかったので、印象的で今でもよく覚えています。
修学旅行の後半では、パリを訪れました。
初海外旅行がロンドンでしたので、ヨーロッパの雰囲気は分かっているつもりでしたが、パリはまたロンドンとは全然違った魅力のある街でした。
あの、ベルばらの舞台でもある街。
オスカルやマリーアントワネットたちが生きた時代を肌で感じられる、歴史的で美しい街並みに私は夢中になりました。
数日の滞在でしたが、私はすっかりこの国が気に入りました。
キラキラ光る夜のエッフェル塔を何度も何度も振り返りながら、
「絶対、またいつかここに戻ってこよう」
と、心に誓ったことを今でも覚えています。
高校時代:筝曲部で全国へ、そして浪人
いつか海外に行くなら、まずは日本の伝統文化を学ぼう!と思い、高校に入学してすぐに筝曲部に入部しました。
私の想像していた華やかな高校生活とは少し違い、放課後はひたすら正座の足のしびれに耐えながら、お筝の練習をする毎日。
どうやら私の高校は県内でも強豪校だったらしく、毎年のように全国高校総合文化祭(文化系クラブの甲子園のような大会)に出場していたので、練習はガチ!
大会前はもちろん練習量も増えるので、夢の中でもお筝の練習をしていた記憶があります(笑)
基本的に私は練習が嫌いで、習いごとのピアノはさっぱり上達しなかったので、きっとお筝も個人の習い事だったらここまで頑張れていなかったと思います。
チームみんなで頑張るからこそ、最後まで辞めずに続けられたのだと実感しています。
浪人時代:どうしてもこの大学に行きたい!
高校3年生は夏前に次々みんな部活を引退していく一方で、私は夏の最後の全国大会に向けて全力投球でした。
そして無事部活を引退した後は、ひたすら受験勉強の毎日。
周りが「将来潰しがきくから」という理由で、総合大学の法学部や経済部を志望校に選択する中、人と同じ道を進むのが嫌いな私は、フランス語を勉強していつか海外に行くんだ、という意思の元、外国語大学のフランス語を目指しました。
法律や経済も勉強しておけば、必ず将来役に立つことがあるし、専門分野+フランス語を勉強すればもっと広い視野が持てるのでは、と今なら考えますが、
当時の私は、とにかく自分のやりたいことをしたい!フランス語勉強したい!という熱意の赴くまま、塾にも通わず国立大学1本で受験に挑みました。かなり無謀。
残念ながら、模試の志望校判定も奮わず、現役合格は厳しい状況でした。
ここまで比較的、真面目に優等生として過ごしてきた私は初めて、周囲の期待に応えられない、目標が達成できない、という焦燥感と挫折感を味わうことになります。
テストが近づくと体調が悪くなったり、人が多い場所に行くと眩暈や吐き気を催したり、ストレスで心身に影響が出るようになりました。メンタル弱め女子…。
10年以上経った今でも、「明日センター試験なのに、全然勉強終わってない!」と焦る夢を見ます(笑)
滑り止めの大学やっぱり受けようかな。。と弱気になる私に対して、学校の先生や親は、「もしどうしてもその大学に行きたいと思うなら、滑り止めは受けずに浪人して来年また挑戦すればいい。1回きりの人生なんだから、後悔しないように、あなたが本当に進みたい道を選びなさい。」と、あくまでも私の意思を尊重してくれました。
結果、1年目は不合格でしたが、翌年には無事志望校に合格することができました。
やりたいことをやらせてくれる環境を与えてくれて、いつも背中を押してくれる家族には本当に感謝です。
大学時代:フランスはどこへ?サンバに明け暮れる日々
念願の志望校に入学できた私は完全にうかれていました。
東京でも23区外の緑が多いキャンパスでしたので、憧れの華やかな東京女子大生ライフとは程遠かったのですが、高校と同じように気の合う仲間たちに囲まれ、好きなフランスやフランス語の勉強ができて、毎日がとても楽しかったです。
お筝は高校時代に1つの目標を達成した実感があったので、それ以上の環境に身を置けないなら、大学でも続けても楽しくないかもな、と思い、別のサークルに入ることに。
それが、ブラジル音楽。サンバです。
高校時代はお筝を弾いていたはずが、突如サンバダンサーに転身した私。
このいきなり何をやらかすか、わからない感じは昔から変わりません(笑)
当初はブラジルに特に興味があったわけでもなく、健康のために身体でも動かすか、くらいのテンションで始めたのですが、すっかりハマってしまい、最終的には浅草サンバカーニバルにも毎年出場することになります。
あまり一般には知られていませんが、本場ブラジルのサンバカーニバルは、音楽やダンス、衣装、山車の総合演出を競うコンクールです。
日本の浅草サンバも同様にコンクール形式で、私が所属していたチームはどうやら毎年優勝を争う強豪だったらしく、練習や準備はガチ!(このくだり見覚えありますね。笑)
クラスメートが週末遊んだり、夏休み海外旅行に出かける中、休み返上でひたすらサンバしていました。
高校の部活もそうですが、中身が何にしろ、お互い切磋琢磨して成長できる仲間たちと、ひとつの目標に向かって一緒に頑張る、ということが好きみたいです、わたし。
フランス語の会話クラスでは、毎週授業の始めに週末にしたことを先生に聞かれるのですが、私は毎回サンバしか言うことがないので、まったく新しいボキャブラリーが増えませんでした(笑)
フランス留学時代:やっとフランス語に目覚める
高校時代から、いつかフランスに留学したい、と願ってきたはずが、サンバにハマってしまい、すっかりフランスへの情熱を失いかけていました。
私の大学は、学生の半分以上が在学中に留学を経験します。
留学から帰ってきた先輩や友人の話を聞くうちに、やっぱり私もフランス行ってみたい、という気持ちがまた沸々と湧き始めました。
ただ、留学をすると社会に出るタイミングがさらに他の人より遅くなりますし、これ以上親にも迷惑はかけられない、と感じていたのも事実。
そういった思いを、鬱々と親や社会人の先輩に相談したところ、返ってきた言葉は、意外にも「ま、どうにかなるよ」でした。意外とあっさり。
いつも進路や進む道は自分で決めてきた、と調子に乗って勘違いしていた時もありましたが、それはこうしていつも背中を押してくれて、挑戦する環境を与えてくれる周囲のサポートのおかげなんですね。
それ以来私も、誰かの夢や挑戦を絶対バカにしたり、否定せず、常に応援する存在でありたいと思っています。
こうして、フランスへ旅立った私。
フランス留学の話は、また別の記事でゆっくりお話しさせていただきますね。
この留学期間を経て、やっと低迷していたフランス語力にも自信が持てるようになりました。
留学生活で実際に暮らしていくうちに、フランスの文化や思想を肌で感じ、再びフランスへの情熱と恋心がメラメラと燃え上がりました。
卒論では、19世紀のフランス女性史を取り上げたのですが、理想の妻・母になるべく育てられ、嫁いでいく当時の女性像を学ぶうちに、現代における私たち女性の生き方や人生におけるやりがいについても、思いを馳せるようになりました。
就活時代:自分が何者でもないことに気づく
メラメラとした気持ちで留学から帰ってくると、みんなは就活の話題でソワソワし始めていました。
幼い時からみんなと同じ道を歩むのが嫌いな私なので、「皆がやっているからなんとなく就活する」という流れに乗ることに納得がいかず、周りが自己分析やらエントリーやら就活準備を進める中、なんとかまたフランスに行って働く方法はないか、と模索し始めました。
そこで、私は少しフランス語が分かるだけで、他には何の特殊技能も経験もない、何者でもないただの世間知らずの小娘ということに気づくのです。いや、気づくの遅すぎですね(笑)
海外で就活をしたとしても、現地人と張り合えるものは何もありません。
フツーの日本人の私がもし海外で雇ってもらえるとしたら、何が決め手だろう?
もし「日本人」が強みになるなら、日本で働いた経験があって、日本のクライアントとの接し方やビジネスマナーをちゃんと理解している人なんじゃないかなぁ、と思いました。
1度決めたら、そこからの行動力はあるので、若干周りに遅れをとりつつも、就活スタート。
無事、旅行会社に就職が決まります。
社会人時代:東京の満員電車と、そこはかとない生きづらさ
旅行会社なので、もちろん旅行や海外が好きな人が多く、またもや気が合う仲間に恵まれました。
仕事は大変なこともありましたが、好きな旅行に関する仕事でしたし、それなりにやりがいもありました。
1年目から自分の担当案件を持たせてもらい、なんとか一生懸命周囲の期待に応えようと毎日必死でした。
女性が多い職場だったので、キャリアイメージは持てましたし、給料がめちゃくちゃいい仕事ではないけれど、正社員だし、安定して続けていくことはできそうな環境だったと思います。
もしかしたらこのままここで頑張れるかも、という思いの反面、
毎日通う東京の通勤電車は、まるで人が人ではないような、感情がない空間。
毎朝ぎゅうぎゅうの車両に押し込まれて、身体も心もぎゅっと縮こまってしまう感覚でした。
新しく始まる1日にまったくワクワクせず、虚しさだけがつのります。
女性が多い職場だと思っていたけれど、よく見てみると管理職のほとんどが男性。
会社では、上からは残業を減らすよう言われるけれど、仕事量は変わらない上に、人手が足りない状況で、明らかにみんな疲れた表情をしていました。
忙しい分、1週間はあっという間に過ぎていくけれど、毎日同じことの繰り返し。
コンビニ弁当を食べながら、くだらないテレビを眺めて、寝て起きたらまたすぐ出勤。
土日のどちらかは泥のようにひたすら寝て、日曜の夜は週末が終わることに抵抗するように、夜更かしをして。
仕事でミスをして、自己嫌悪に陥り、家でメソメソしているときに、支えになったのは「いつかまた海外に行く」という夢でした。
大学時代にフランス留学したときは「いつかフランスで働く!」なんて威勢のいいこと言っていたけれど、フランス語を使う機会はほぼありません。
よく知っているはずのテレビで見るフランスの風景が、なんだかまるで遠い夢の世界の出来事のように感じました。
このままじゃ、夢が夢で終わってしまう。
本当にこのまま私の人生終わっていいのかな。
そう思うようになりました。
でも、世の中には、自分より大変な環境でもっと頑張って働いている人がいる。
自分は恵まれている方なんだから、弱音を吐いちゃダメだ。わがままだ。頑張れない自分が悪い。
辞めたら周りに迷惑がかかるし、「これだから最近の若者は。」と批判される。
周りの目も恐くて、海外に行きたいという夢を周りに伝えることもできずにいました。
そんなとき、「在外公館派遣員制度」という外務省の制度で、フランスの日本大使館に募集ポストがあることを知りました。
フランスで働けるチャンスがある。
なんとか締め切り日ギリギリに願書を提出しました。
ブランクがあるフランス語に自信はなく、筆記試験は散々な出来だったけれど、それでもご縁をいただくことができました。
ただし、第1希望のフランスではなく、スイス。
でも私にもう迷いはありませんでした。
採用の連絡をもらった翌日、上司に相談しました。
忙しい時期だったし、それでなくても人が足りていないのに、勝手なことして怒られるかも、引き留められるかも、と若干覚悟はしていましたが、
上司に辞職の旨を伝えたあとの開口一番は「すげー!かっこいいじゃん!」でした(笑)
予想に反して私の選択を尊重して、応援してくれたのです。
同期や同じ部署の先輩、関わりのあった他部署の方までも暖かい声をかけてくれて、応援してくれました。
そして、意外と自分がいなくても組織というものはしっかり回るということに気づきました。
企業の中で自分がいないと業務が滞る、だなんてずいぶんと驕った小娘ですね、今思えば(笑)
ちなみに親には受験したことも事後報告だったので、何か小言のひとつは言われるかな、と思っていましたが、会社を辞めると伝えたときの反応は「いいじゃん~Shokoがいるなら、スイス遊びに行けるね。」でした(笑)みんなあっさり。
こうして、なんとか仕事の引き継ぎも終え、私は無事会社を辞め、スイスへ向かうことになったのです。
在外公館派遣員時代:ワークライフバランスの大切さに気づく
スイスでは、アパートが職場からバスで10分以内の場所だったので、まず通勤のストレスがほぼなくなりました。
日本で働いていたときは、雑務のために朝は始業の遅くとも20~30分前に来て、残業も当たり前でしたが、スイスでは始業時間ぴったりに仕事を始めて、定時には仕事を終えて帰宅することが多かったです。
もちろん時期や業務によって、朝早く出勤したり、残業することはありましたが、それがスタンダードではなかったので、生活にメリハリがありました。
ヨーロッパは夏時間があるので、夏になると22時頃まで明るい日が続きます。
オフィスを出てもまだ日が長いので、仕事終わりに同僚や友人とピクニックをしたり、湖に泳ぎに行ったりして、アフター5を楽しむことも。
娯楽は少ないのですが、週末はハイキングやジョギング、マラソンなど自然を楽しむアクティビティはたくさんあります。
東京の生活に疲弊していた私の心は、自然の力によってすっかり軽くなっていました。
何かうまくいかないことがあっても、山やビーチで寝そべりながら、青い空や壮大な山を眺めていると、自分の悩みなんてちっぽけなものだなぁ、と思えるようになりました。
職場は日本人を始めとして、スイス人、フランス人、ポルトガル人、と多国籍の同僚がいました。
夏になると、みんなバカンスの話題で持ちきりになり、みんな少なくとも2週間のお休みをとって、ゆっくりと夏休みを楽しんでいました。
ある日、スイス人の取引先から「来月から半年間世界1周の旅行に出ます。その間はムッシュー〇〇に引き継ぐのでよろしく。また戻ってきたらよろしくね。」というメールが届きました。
日本の学生時代、社会人の先輩に「学生は旅行がいっぱいできるからいいよなぁ。社会人になったら長期で海外に行くのは難しいから、今のうちに行っとけ」と散々言われてきました。
社会人になってもできるんじゃん。彼女からのメールを見て、思いました。
スイスでもなかなかここまで長期の休みをとって、また同じポストが用意されているというのは、珍しいケースかとは思いますが、人生をとことん楽しむ姿勢に私は心が強く惹かれました。
仕事とプライベートをきっちり分ける。働くときは働くし、休むときは休む。
いつだって人生を楽しむことを忘れない。
本当の意味でのワークライフバランスを実現している人達を目の当たりにしたことは、私の中で大きな衝撃でした。
そして現在:フリーランス in フランス
2年間のスイスでの任期を無事終え、さて次どうしよう、という段階に差し掛かりました。
日本に帰って就職するか、またヨーロッパへ戻ってくるか。
スイスの生活もすっかり気に入っていましたが、今度こそフランスへ戻ろう、と私はすぐ思いました。
でも、海外に住むにはビザが必要になります。
私は現地の方と結婚しているわけではないし、企業からビザのサポートを受けられる立場でもありません。ただ好きでフランスに住みたいだけの何者でもない小娘です。
フランスに住みながら、でも自由に日本にも帰ることができる環境にするにはどうすればいいんだろう、と考えた結果、まずは年齢ギリギリですが、ワーホリビザを取得し、そのままフリーランスの道を進むことに決めました。
未だに「何者でもない」未熟な私ですが、なんとかこうして道を切り開いて今に至ります。
ブログを始めた理由
サイトの「Salut le monde!(サリュ・ル・モンド)」はフランス語で「世界よ、こんにちは」という意味です。
私は日本が大好きです。
日本でモヤモヤを感じて飛び出てきたことは事実ですが、離れてみると一層、母国の素晴らしさを感じます。
トイレは綺麗だし、ご飯美味しいし、素朴で礼儀正しい国民性、一流のサービスには毎回感動しますし、日本人として誇りに思います。
そして、フランスも大好きな国のひとつ。
でもだからといって、フランス最高!海外はパラダイス!ということを伝えていきたいわけではありません。
フランスも同じように解決すべき問題点はたくさんあります。
日本のように物事がスムーズにいかないことも多く、生活しているとイライラが募ることもあります。
もちろん世界を見渡しても、完全無欠な国というのはないと思います。
でも、日本を一歩出て、他の世界を「知る」ことにより、気持ちが軽くなったり、自分の国の良いところや改善点が自然と見えてくる、ということを海外で暮らして、実感しました。
日本の中で「〇〇でなければいけない」「こうあるべき」とされていることが、海外では違っていたり、個人でウンウン、モヤモヤ悩んでいることが、海外に出ると意外とあっさり解決したりすることもたくさんあります。
英語だけではなく、別の外国語を学べば、世界はさらにもっと広がっていきます。
1歩踏み出すことで、人生が大きく動き出すこともあるかもしれません。
その1歩を踏み出す人たちを応援できる存在でいたい、という思いから、このブログを開設しました。
フランスやフランス語に興味がある方のお手伝いや、私と同じように人生に思い悩む方の少しでも背中を押せる発信ができれば幸いです。
私もまだまだ発展途上の身ですが、皆さんと一緒に成長しながら、自分だけの人生を切り開いていくことをワクワク楽しみにしています。
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